夏の予感。

大学は今日でおしまい。
中国語の授業も最後だったので、
終わった後、みんなで中華料理を食べに行きました。
作ってる人が中国人で、先生も中国人なので
北京語でぺらぺらなんか話してたけど、
さっぱりわかりませんでした。

でも、なんかその料理人のにーちゃんも
楽しそうに話してて、すごい微笑ましかったですな。
やっぱ、なに、母語で話せる喜びっつーのが滲み出ててさ、
それがなんとも言えずよかったです。

大きくなってから身に付けた第2言語というのは、
どんなに勉強してもネイティブランゲージのように
使うことはできないと思う。
語法がうんちゃらとか、そーゆー面では
限りなくネイティブに近づくことは可能だと思うけど、
その〜、言葉に対する感覚がね。絶対に違うと思うんだよね。
例えば日本語なら「あちっ」とか「いてっ」とか。
思わず口について出る感覚。

海外で暮らしてる人ってのは、
普段どんなに現地の言葉を上手に使いこなしてる人でも、
そういう面できっとなにか自分を抑圧してる部分があるでしょう。
意識せずとも。だから、それが解放される瞬間ってのは
やっぱりすごく嬉しいんだろうと思う。

第一言語が本当に2つあるバイリンガルの人って
どういう感覚世界の中で生きてるんだろう。
普段頭の中で「あー暑い。クーラー欲しい」とかさ、
普通にひとりで日々考えてることを
本気で2言語ごちゃごちゃに混在させて思考できる人。
もう絶対に体験できない世界だからこそ、憧れる。
だから子供はバイリンガルにしたいんだよねー。密かな野望。

逆に言葉を持たない人の思考というのも考えると不思議。
一度言葉を身につけてしまった人間は、もう言葉なしには
物を考えることができないでしょ。
空腹を感じたら、その瞬間に頭の中で空腹感は
「腹減った」という言語に変換されて、
その言葉を通じて人間は感覚を自己認識してる。
普段の生活では感覚そのものではなく、
その感覚を(不完全な辞書で)変換した言語を通じてしか
自分の感覚をしっかり捉えることはできないの。
だから、昔オオカミに育てられた赤ちゃんとかって
ニュースであったけどさ、あの子の脳はどういう風に
世界や自分を認識していたんだろうと思うと興味深い。

ちなみにお店のトイレの鍵の調子がおかしくて、
あやうくトイレの中に閉じ込められそうになり超焦りました。
トホホ。