かげふみ(続き)。

僕の仕事は、言うなれば映画監督の意図を読み取り、
その魅力を最大限引き出してあげること。
主張ではなくて理解。
その中で自分以外の誰かではなく、
自分がやる意味を追及していかなければならない。
自分だけの、自分の表現。
他人の意図と自分の表現を、究極的には融和させていくことに
きっと意義があるんだなぁ。
それは個性のバトルのようなバンドとは違う。

この1年間今の仕事してきてよかったと思えるのは、
音楽という枠組みをも外せたこと。
僕は、何かを規定する枠組みを外したかったんです。
大人だから、こうあるべきだ。
男だから、こうあるべきだ。
ハ長調だから、こうあるべきだ。
そういう枠組みをとっぱらって生きたかったの。

音楽の調性を自由に行き来したいと思ってた。
でも、もう別にメロディーである必要もないような、
ただの音だけだって大丈夫なような・・・、
最近ではそういうふうに感じるんです。
音楽っていうのは、それ自体に強くメッセージ性があって、
だからね、例えば航のようなすごいエネルギーの前で、
とても自己完結しているその表現の前で、
もう他人のメロディーっていうのは
どうしても相容れないような感じがします。

でも、音って違うのね。
例えば、23時の駅から家に向かう途中の道の音。
遠くに低く響く交通のうねり。
これって別にただゴーっとかいってるだけなんだけど、
今日帰ってくるときに思ったんだけど、
どこか空虚な、自分と関係なく世界って動いてるんだ、みたいな、
心に穴がぽっかりとあいたようなあの感覚を
突然ものすごくリアルに表す道具になるかもしれない。
それ自体に何の意味もなくても、突然化ける。
これが音のマジックなのです。

航の音楽に、彼女という人間がもっと濃密に圧縮されていったら、
音をつけてもっとそれを広げてみたいかも。
仕事と違うのは、航の世界観に共鳴したいと
自分で本当に思えることです。

今は音楽と音のあいだを自由に行き来したい。

もちろんUSでひたすらポップな音楽やりたいってのも本当の自分で、
なんだか人間って不思議なもんだね。
自分の中に色々な個性がまた広がっている・・・。
これが様々な自己表現になっていくのだなぁ。